第6話 中村照夫 ライジング サン バンド アット カーネギー ホール 1979

1977年 まだマンハッタンで生活を始めたばかり、右も左も分からない。

そんな中、ある日ウェストビレッジを歩いていた。 

 

前方から歩いてくる白人の青年が「ARE YOU JAPANESE?」と聞いてきた。

続けて「DO YOU KNOW TERUO NAKAMURA?」と聞いてくる。

 

当時中村照夫 ライジング サン バンドの音楽がビルボード誌のTOP10入りを果たし、

FM曲は頻繁に、一日に何度も彼の音楽を流し続けていた。

 

13年前ですら、私がブルックリンのゲイザーズでのジャム セッションに参加していたとき、この黒人のオーナーが、

私が日本人だからであろう 「DO YOU KNOW TERUO NAKAMURA?」と聞いてきた。

後で分かったことだが、私が何度かライジング サンで仕事をさせてもらったとき、

クイーンズにあるジェラルズと言うクラブで演奏したことを覚えている。

 

もちろん黒人街にあるクラブ。店内も観客全員が黒人である。

薄暗い店内で、ステージからは彼等の目の輝きしか見えなかったことが日本から来たばかりの私には異様に映り、

そのことが今でも目に焼きついている。そしてこれが私のニューヨークでの初めての仕事であった。

当時このジェラルズで働いていた人が今はこのゲイザーズのオーナーとなっていたわけです。

 

後にも先にもこのアメリカで、特に黒人達に「ブラザー」として本当に大きく受け入れられた日本人ジャズ ミュージシャンは後にも先にもこの中村照夫さんだけであろう。

今の50代以上の黒人で彼の名前を知らない人はいないと言っても過言でないと確信する。

 

中村照夫。25歳で単身ニューヨークに渡り、そこで初めてレジーワークマンからジャズ ベースを学び、

次第にロイ へインズやスタンレー タレンタインのグループに参加。

カーネギーホールでのNEW PORT JAZZ FESTIVALで、このスタンレー グループで演奏終了するや否や、

ジョージ ベンソンが楽屋から飛び出してきて、「いまベースを弾いていたのはお前か?」 と聞かれ、

その場で今度はジョージ ベンソン グループにも雇われることになる。

 

そしてニューヨークに来てほぼ10年後のデビュー LP 「MANHATTAN SPECIAL」が大ヒット。 

当時の時の人となる。

さらにその数年後、1979年 ジャズ ミュージシャン、しかもベース プレーヤーでありながら、

それまでの集大成としてカーネギーホールでの単独公演を大成功に収めた。

 

そのときの録音がCD化されたという話を聞き、早速日本の友人に頼みそのCDを送ってもらった。

 

TERUO NAKAMURA RISING SUN BAND LIVE AT CARNEGIE HALL

ポニーキャニオン PCCY 30155

 

内藤遊人さんの当時のLP用のライナー ノーツがそのまま使用されている。

 

この録音はニューヨークの黄金時代とも言われる70年代の当時の熱気を余すところなく伝えており、

中村照夫さんの活躍を何度も目撃している私には大感動の貴重な録音である。

長い4曲の収録であるが、まず観客の拍手に今と違って熱気がある。

どの曲も観客が大喜びしている状況がはっきり分かる。 

 

たった一人の日本人が、しかもベース プレーヤー がこのニューヨークのカーネギーホールで

これだけの豪華メンバーとともに、当時これだけの拍手を貰っていたのである。

 

同じ日本人として誇りに思うし感動しないはずがない。

 

メンバーはRONNIE BURAGE: DRUMS

MARK GRAY: KEY BOARD

STEVE GROSSMAN: SOPRANO & TENOR SAX

KINNEY LANDRUM: SYNTHESIZER

BOB MINTZER: TENOR SAX

BILL WASHER: GUITAR

RANDY BRECKER: FLUGEL HORN &TRUMPET

DOM UM ROMAO: PERCUSSION

HARRY WITAKER: E. PIANO

 

最近日本から来た若いベースと話をしたときに、彼は中村照夫の名前を知らなかった。

無理もない。当時生まれていなかったわけだから。今この街にも相当多くの日本人ミュージシャン達がいる。

当然私も含めてではあるが、この中村さんのようなこのアメリカで、

当時は「ジャップが ジャズ?」と、相手にもされない中で、果敢に自分の夢に向かいその夢を果たした。

次に続く世代に大きく道を開いてくれたのである。

 

ちなみに彼がスタンレー タレンタインのバンドで巡業している最中、

特に人種差別の激しかった南部のジャズクラブでの演奏中、トマトその他を投げつけられたことも

一度や二度ではなかったそうだ。

 

またロイへインズと演奏しているときも楽屋に、今では有名となったベース プレーヤー達が訪れ、

ロイに「何で俺たちブラザーを使わないでこんなジャップと演奏するんだ?」

といわゆる仕事を横取りに来たこともあったそうだ。

 

そのときロイは「お前さんがこのTERUOより良いリズム感のあるベース プレーヤーなら明日からでも雇ってやるよ」

と答えたそうだ。

 

これらのことからも分かるようにここは実力社会アメリカ。

その激戦区のニューヨークでTOPに上り詰めたこのベース プレーヤー 兼 バンドリーダー 中村照夫。

 

秋吉敏子さんに続き、この米国で、後に続く日本人ジャズ ミュージシャンたちのために大きな扉を開いた

中村照夫さんのこの貴重な当時の記録を、是非ひとりでも多くの人々に聞いて欲しいと思います。


                                     June 06.2010




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